昭和51年05月11日 朝の御理解



 御理解 第40節
 「重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。」

 信心を家業を勤め勤めするがよいと。ね。信心は仕事の合間、合間にするがよい、というような事ではないと思うですね。仕事があるから仕事の合間、合間を見て信心をする。それでは、楽になれないです。ね。合間合間信心のない者なら、その合間合間を一服するとか、休むとかと言う事でしょうけれども、その合間を見ては、神信心をせんならんと言うと、それはそれだけ矢張り重荷になります。ね。
 心にいつも掛かっておるのですから、何とはなしに心に重荷になります。家業を勤め勤めするがよいと。ね。言うならば家業の中に信心がなからなければならない。家業即信心。信心すなわち家業と。と言う様な在り方になった時、初めて信心が一つも触らない。信心が重荷にならない。ここを頂きようではね、その信心は楽じゃだから家業を勤め勤めするがよい。ね。言うなら片手間で信心は出けると言う様な風に聞こえるけれども、
 もし片手間の信心であったら、それは楽にはなれませんです。ね。信心がないなら朝起きもする事はいらんし、お参りもする事はいらんし、お賽銭もいらんし。ね、そういうようなものが、いわゆるここでは家業を勤め勤めするがよいと言う事はね、教祖が仰る信心は楽じゃと言われる。だから、信心が楽になるまでの信心。それは、やはり家業の中に信心がある。いわゆる信心即家業であり家業即信心である。ね、ですから一つも重荷になるものがない訳です。
 家業いわゆるならお参りをしておる事も、家で家業をしておる事も同じなんだ。ね。それかと言うてんなら、家業だけしておるというのでは信心にならないでしょう。家業の中に信心。家業が即信心だと言う所まで、お互いの信心が高められる時に、信心は楽じゃ。重い物を負うておる訳ではない、もう言うなら信心が血に肉になって参りますと、信心は楽だと言う事になります。ね。だから信心が楽になるところまで、信心を進めて参りましたら、一切が楽になるです。ね。
 所謂いわゆる人間の幸福と言うか、ね、言うならば難儀というものが段々、影を潜めて来る、無くなってくる。あるものは有り難い勿体無いと言う事だけになって来る。信心がいやが上にも楽しい、有り難いものになって来る。ね。私今日はあの草かんむりに楽ですね、楽しい薬という字ですという字を頂いとったんです。ほしたらここん所を頂くんですから。楽という字に草かんむりをかけると薬だ。
 例えばまあ良薬は口に苦しと、昔から言われております薬は、ね、苦いもんだとまあ思います。だから苦いから飲まないと言うたんでは、言うなら病気も癒えません。ね。私どもの言うなら心の病。この頃久留米支部の大祭の時に頂きましたようにね、結局信心する事によって、段々分からされる事は、自分の足りない事が分かって来る。もう本当に足りないづくし、何もかにもが不行き届き。ね、言うならば真が足りないと言う事になって参ります。言うならば心の不具者と言う事になって来る。
 ですから言うならば少しは苦い薬でも飲まなければ、楽にならない。そこでなら日々起きて来る、その問題の中を様々な苦い思いをする問題が、ね、起きて来るそれを信心がないならば、もうそういう苦い思いは御免だという事になる、まっぴらだと言う事になります。所が信心が分かり自分自身が分かり、心の不具者である心の病気であると言う事を分からせて頂いたら、ね。
 その苦い思いをする事が有り難いと言う事になりゃしませんか。はあこの苦いこれで私の心の病気が癒えるんだとこう言うのです。昨日福間の方から何人もお参りがあっておりました中に、何とか佼成会という宗教をしておられる方が、お参りして見えとりました。もう、本当に頑丈そのものだ。所が大変体が弱い。ほお貴方はもう、ほらあのそれこそ、まあ見かけは健康そのもの、頑丈そのもののようですけれども、そのいわゆるいつも病気がちだとこう言われるのです。
 丁度お月次祭の始る前でしたから、まあ一口まあお話させて頂いたんですけれどもね。この神様はね、心が癒えると必ず体も癒えて来るんです。ね。もう健全な心を目指させてもろうたら、体は必ず健全になるんです。だからここではね、体が健全になるお話ばっかりを、まあその何々様かはどう信心しとられるか知らんけれども、とにかく金光様は心の健全になる事のお話ばっかりを頂きます。そのお話を頂いて実行する所に、心が健全になります。心が健全になりますと何を頂いても障らんという事になります。ね。
 胃腸の強い人は何を食べても、飲んでも一つも障らん。胃腸が弱いからちょっと飲みすぎると、もう明くる日は頭が上がらん。ちょっと食べすぎるともう胸にもたれて出けん、というのと同じです。心が健全になりますと障らんのです。人が困ったと言っておる事が、一つも困ったもんではない事になって来るんです。ね。結局心の健全を願う。ね。だからお話を頂いて、一言でも心の健全になる、言うならばおかげを頂いたら、体の方は必ず健全が約束される。と言う様な頂き方ですから、ね。
 起きて来る例えば問題がです、嫌な問題とか、困ったとか悲しいとか、苦しいとかという風に感ずるならば、自分が今心が健全でないという証拠なんだ。頂きにくいとじゃもん。ね、それ見ただけでムーッとして来るとじゃもん。食べたら吐き出そうごとなって来るとです。ね、そういう問題があるんです、沢山日々の中に。ね、そこでですそれをそういう難儀な問題とせずに、それを言うならば、良薬であり、口にはちょっと苦いけれども、これを頂く事によって胃が健全になる。
 心が健全になると思うたら、有り難く頂く事になるのです。ね。私は今朝から頂いた、いわゆる草かんむりに楽という字を頂いたのは、言うならば草かんむりと言う事は自然と言う事だと思います。ね、自然に起きて来る事をです、楽しく受けると言う事はです、それを身の薬だ、心の薬だとして頂く頂き方になる時にです、ね。心が健全になって来る、何を頂いても障らんと言う事になって来る。障らん所か本当に胃がどこにあるやら分からんと言う様な健康なおかげを頂いて参りますとです、ね。
 本当に目をつぶって健康であると言う事を思うただけでも有り難うなって来る。そういう信心が身について来るというのですから、信心は愈々楽しい、有り難いものになって来るんです。ね、これを一つ頂き方を間違えるとです、信心は楽じゃ家業を勤め勤めするがよいと。ほお金光様の御信心っちゃもう仕事の合間、合間にすりゃ良かつばいのと。いかにも楽なごとあるです。ね、所がそれでは決して楽にならないです。信心が即家業である。家業が即信心であると言う事になって参ります。ね。
 そういう信心が身について来る事になります時に、初めて楽しいものになって来るんです。楽だと言う事になって来るんです。何を頂いても障らん心の胃腸を作って行くという事。心の健全を先ずは願うと言う事。ね、そこで、私どもは日々んなら、苦い思いをする様な事やら嫌な思いをする事やら、痛い痒い思いをする事がありますけれども。そこに痛いと感じたり。ね、それを苦しいと思うてんじゃあ、そう言う事は御免だと言う様な心の状態の時には、自分自身がいわゆる、心の不健全である事を悟らせてもろうて、その苦い思いをする、それを病弱だと悟らせて頂かなきゃいけんです。ね。
 どんな難儀な問題があっても、はあこれによって自分の心が癒えて行くんだという頂き方をする時にです、ね、その問題が光り輝いて参ります。ね。その問題を拝まなければおれなくなって来るのです。昨日ここで修行しております永瀬君がお夢を頂いたと言うんです。そのお夢がどういうお夢かと言うと。うん難しいお夢でしたけど、そのワニ、ワニがおる。そのワニがこう丁度壁チョロのごたる風に、壁ば登って行きよるげな。ね。まあ言うならば、まあ、めぐりの親分のようなもんでしょう。ね。
 それから、次には、梅の木に白い蛇がこう登って行きよる所を頂いた。昨日の御理解だよと言うて、まあ話した事でした。研修の時にそんなお届けをしておりました。ね。めぐりが大きければ、大きいだけおかげも大きいと、いわば悟る時にです、ね、蛇と言やあめぐりです。ね、けれどもあの白い蛇と言う事は、これは大変金運に恵まれるという風な時に頂きますですね。けれども梅の木というのは、辛抱と言う事です。
 信心辛抱と言う事です。それを信心辛抱させて頂いておる間にゃあ、いわゆる梅の実のような徳も受けられるというのです。めぐりが人並み外れた、それこそ難しいめぐりを持っておるんだけれども、そのめぐりが大きければ大きいだけ、おかげが大きいというのだからその難儀なら、ね。めぐり即難儀という形になって現れて来る。して見るとその難儀というものの見方がです。はあこれがこれがお徳の元だなと分かったら、有り難とうなって来るというお知らせでした。
 だからその事が分かりにくい風だったから、私が以前あの田主丸からまだ、それこそあの料理屋が大変多い町ですからね田主丸には。大きな料亭がいくらもありました。その時分に、あの椛目の時代にお光という料亭の女将さんが参って来よりました。それこそ夕方ともなるとおなごし達をもう、店に立つばっかりにきれいにこしらえて。そしてあの連れ立って参って来るんです。そりゃあもう華やかなもんでした。してそこの女将が言うておりました。女子は商品だち商いモンだと。ね。と思うております。
 そして女子の人達に言うておる事はです、もうどげぇんな例えば器量ん悪か、汚かごたる男が来たっちゃです、それを人間と思うちゃならんち。それはもう金の固まりと思わにゃ出けんち言うて、教えよりますと言うのです。ほれはだからあそこの女子はもう、とにかく、そういうお客さんは皆、自分の好いたつだけはと言う様な事じゃなくてから、もうどげな奴でん金さえ持っとんなら、もうそれこそ一週間でん十日でんい続けさせるぐらいにサービスをよくする訳。
 もう帰る時にゃあもうそれっこそ、まあもう何もないごと絞り上げてしまうようにして。あのそれこそある時に来たげなもん。ほらもうこう胴巻きどんして、汚かごたっどんまだそのまあ本当どこで何じゃ分からんごたる、まあ汚れたごたっとが来た。ね。所がその、胴巻きに沢山金のあるとが分かったけんで、もうそれば一週間居続けさせて、もうスッカリ取り上げてしもうた。もうそれこそエッちゅうごたる男じゃったげな顔は。そればってんもうそれ男と思うとらんもん、人間と思うとらんもん。
 こりゃあもう金の固まりと思うとると。ね。金ば抱いて寝とると思うとる。そげん女子には教育しますと、こう言うんです。だから、ここでは私がです、難儀はそのまま徳の固まりだと思いなさいという事をいつも言う訳です。ね。私はそういう風に私はその思える心が悟りだと思うです。ね、難儀と見らない。もうそれは徳の固まりだという事を、昨日その永瀬くんが頂いておりました。ね。楽でしょうがそすと。ね、
 信心をそこまでね私は楽であると同時に、楽として楽しいという字になりますが、楽しいと言う事になる。これに草かんむりをあてると、言うならば薬という字になる。だから、どういう例えば問題であっても、難儀な問題であってもです、それが自分の心に頂きかねるような、ね、事であっても、これが自分の心の不完全であると言う事を悟らせてもろうて、ね。心が完全である心の胃腸が健全であれば。
 何を食べても飲んでも障らない。所が障る所を見ると自分の心の、言うならば胃腸が不健全であると言う事を悟らせてもろうてです。そしてこの問題この苦い問題をです、それを薬と思うて頂こうという気にならなきゃいけん。だから心が癒えて来るんです。心が健全になって来る。ね。だから健全な心に健康が宿るようにです。健全な心に一切のおかげが頂かれるです。難儀というそのものをです。ね。
 その自分の料理屋の女女子しにです。どげな男でっちゃ金さえ持っとんならば、もう人間と思いなさんなち。金の固まりば抱いて寝とると思えというぐらいなです、徹底した頂き方です。ね、だから金と思うけん大事にせにゃおられん。大事にされるけんそれこそ一週間も十日もい続けするごたる事になって来る訳です。ね。お互いがです難儀と思うとんのは難儀じゃない。そりゃあもう徳の固まりだと。そういう意味でですめぐりが大きければ大きいだけ、またおかげも大きいと言う事になるでしょうが。
 それをもう難儀は嫌ち、向こさんもうこうやって追いやるような事するから、いつまで立ったっちゃ一生立ったっちゃお徳というものが分からん。おかげは頂いてもお徳の有り難さが分からん。ね。今日はね、ここん所を頂き違えないように、重い物をかろうたりしておるのではない。ね、重い物を負うているか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい、とただ一遍通りここを頂きますと、私どんも以前はそう思いよった。ね、
 言うならば家業の合間、合間にいや片手間に信心なして良かもんばいと思いよった。所がそう言う事では全然おかげを、いやおかげは頂いてもね、自分の血にも肉にもならないと言う事が分かった。お徳にゃならない事が分かった。昨日の御理解を持ってするならばです、ね、信心すれば誰でもお徳が受けられると言う様な風に教えておられるけれども、そのお徳の受けられない事が分かった。ね。
 真の信心を自分の心の中に秘めて、信心の真を外に現して行くと言う様な信心をさしてもらわなければ、信心の徳というものは受けられないというのが、昨日の御理解でしたよね。ですからその一つの過程としてです、信心を楽しい楽なものにしなければならない。それには、家業を勤め勤めと言う所は、家業の仕事の合間合間にすれば良いというのではなくて、家業そのものが信心であり、信心そのものが家業であるという、不離一体のものになって来るようなおかげになって来るようなおかげを頂く為にです。
 言うならば難儀そのものをです、徳の固まりと見る見方。それが本当は肉眼を置いて心眼を開いた者の頂き方なんです。段々夕べの御理解を頂きますとです、お道の信心は体験の宗教だと言われておる。毎日毎日その体験が素晴らしい。毎日毎日頂く御教えをです、ね、一言でも本気で行じる所に心にまたは形の上に生まれて来るのが体験だ。ね。その体験を、ね、積み重ねその体験が積もり積もって、力になり徳になり。
 そして難儀というものが、難儀の正体というものは、実は神愛である徳の固まりであると言う事が、分かって来るようになる事を、心の眼が開けたと言う事だという風に、昨日は聞いて頂いたんですね。
   (B面へ)
 心の眼が開けたらです、本当に難儀そのものを徳の固まりと見る事が出来るんですけれども、まあそこまでお互いの眼が開けておりませんから。ね、とにかくそれを苦い薬だと思うて、またそれが自分の心でこなせないような。
 自分の心の不健全さを悟らせてもろうて。その苦い薬を頂く事によって、健全な心健全な胃腸を頂かせて頂こうとする精進。ね。苦いけれどもだから有り難いと言う事になって来るです。家業を勤め勤めするがよいというのは、ね、そういう信心を例えば家業の中に様々な感じる。難儀を感ずる事がございますけれども、ね、生活させて頂く間には生活の中にです、様々な苦しい思いをする事がありますけれども、ね。
 その苦しい思いそのものを良薬である。苦いけれども口には苦いけれども、ね、目の前にはそりゃあ難儀と見えておるけれども、それを良薬として頂いて行く内にです、それは難儀ではないおかげである。神徳を受ける手立てである。今日の御理解で言うと、ね、それは徳の固まりである。とても惜しゅうして向こうに押しやるような事だん出けんと言う事になります。ね、そういう信心が身について来る時に、信心は愈々楽であり、ね、信心は愈々楽しいものになって来るのですよね。
   どうぞ。